聖書の語る永遠のいのちとはあの世における幸福ではない。
聖書はイエスキリストを信じる事で永遠のいのちを得る事ができると教えている。クリスチャンが、イエスキリストを信じるの一つの目的は永遠のいのちを得る事である。永遠のいのちを手に入れることは大事な事だ。しかし、この永遠のいのちについては誤解が多い。驚くべき事に私の周りにいるクリスチャン達も誤解している。
聖書によれば永遠のいのちは下記のように定義されている。
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」
ヨハネによる福音書 17:3 口語訳
http://bible.com/1820/jhn.17.3.口語訳
これによれば、永遠のいのちの本質は神とキリストについて知ることだ。イエスキリストを信じるためには神とキリストについて知らないといけないので永遠のいのちのはじめとして神とキリストについて知るという事が必要である。しかし、神とキリストについて知る事は永遠のいのちのはじめである事に留まらず、永遠のいのちの現在でもある。
今を生きているクリスチャンは聖書を通じていつも神とキリストと交わる事ができる。交わるとはコミュニケーションのことだ。クリスチャンは神とキリストが自分に対して過去において何をしてくださったか、また今神とキリストが自分に対して何を望んでいるのかを聖書を通じて知る。それを知るとクリスチャンの現在における行動が変わる。その行動の中に神とキリストの存在が示される。神とキリストはそのクリスチャンを守り助ける。これがクリスチャンと神とキリストとのコミュニケーションであり永遠のいのちだ。
このいのちのうちにクリスチャンは大きな喜びを覚える。なぜかというとそれは愛し合うもの同士のコミュニケーションだからだ。何はなくとも互いに愛し合うもの同士の何気ない会話に人は幸福を覚える。クリスチャンになることは神とキリストが自分をいかに愛してくれたかを知る事であり、自分が神とキリストを愛するという関係を築く事だ。神とキリストの愛は十字架によって現され、クリスチャンの愛は神とキリストの命令を守る事で現される。十字架を思い、神とキリストの命令を守る時クリスチャンの大きな喜びがある。なぜならそこに愛があるからだ。
そしてこの関係は永遠という未来においても変わらない。いつまでも神とキリストと愛し愛される関係が永遠に続く。それが永遠のいのちだ。聖書の語る永遠のいのちは決してこの世で我慢して未来に実現する。そんな遠い話ではないのである。