救いの用意は既に整っている。

rieruです。

今日は下記の聖書の記事を通して聖書の語る救いの一つの側面について書きたいと思う。まずは下記の聖書の記事をお読み頂きたい。

「イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭4:46-53‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.4.46-53.口語訳

上記の記事をおさらいすると、1人の役人がキリストに自分の息子の病を癒してくれるようキリストにお願いに来た時、キリストは「息子は既に治っているので帰りなさい」と答えた。結果的にこの時点で、息子は治っているわけだが、ここで役人が言われた通りに帰ってその事を知るためには強い信仰が必要だった。なぜなら、帰ってみても息子が治っていなかったら手遅れになるかもしれないし、もう一度キリストに会えるという保証もなかった。(当時は携帯などの通信機器はないから再度キリストに会うことは簡単ではなかった。)しかし、役人はキリストの言葉を信じて帰った。そして帰ると息子は治っていた。

この出来事の一つのポイントは役人の息子の癒しは役人が帰路に着く前に完成していたという事である。役人はこの既に完成した「息子の癒し」を自分のものとするためにはキリストの言葉を信じるという「信仰」が必要だった。聖書が語る罪の裁きからの救いにも同じ事が当てはまる。全ての人の罪の救いは既にキリストの十字架によって完成している。しかし、個々の罪人がそれを自分のものするためには信仰が必要である。それは言わば沈みゆく船の傍に救命ボートが用意されているようなものだ。船との中で海の中へ沈みゆく乗客はそれに乗りさえすれば良い。普通の難破船の救命ボートは数が足りなくなり命の選別が行われたりするが、キリストの十字架という救命ボートは乗客全てを乗せる事ができるだけのキャパがある。問題は罪人という名の乗客が信仰によってその救命ボートに乗るか否かという事だ。この時に求められる信仰はキリストが罪人である自分の身代わりに神から裁かれ生命まで捨ててくださった救い主であるということを信じる信仰である。

rieruは1人でも多くの人が罪の問題(永遠の火の池という裁きを受けるという問題)を自覚して、既に傍に用意されたキリストという救命ボートに乗る事を願っている。

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