個人個人が神の前に責任がある。

おはようございます。rieruです。

今日は時にそれは下記の言葉である。誤解されている聖書の言葉を紹介したい。

「ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭16:31‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.16.31.口語訳

この言葉はか1人が、キリストを信じて救われたら自動的に家族も救わられるという意味に捉えられなくもない。だから、クリスチャンの中でも「今キリストを信じていない家族もいつかキリストを信じて救われるはずだ」と考える人もいる。しかし、聖書は救いについて個人個人が神の前に責任を負う事を原則としている。例えば、別の箇所には下記のように記されている。

「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭3:9-10‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.3.9-10.口語訳

これはパブテスマのヨハネが、「アブラハムの子孫である」事を誇りとしていたユダヤ人に対して語った言葉である。ここヨハネはアブラハムパブテスマの子孫である事が免罪符になる事はないと明言している。ユダヤ人は神から特別の扱いを受ける民だが、その民の一員である事と個人個人の罪の問題は別であるとヨハネは教えている。これとクリスチャンの家族は自動的に信仰に至って救わられるという考えには矛盾がある。又、他にも下記の記述も聖書には存在する。

「なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭7:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1co.7.16.口語訳

ここはもっと直接的に夫が救われるか妻には分からないと記されている。これはこれは明らかに家族の救いと個人の救いが分離している事を示す。では、冒頭の言葉はどう解釈すべきか。もう一度冒頭の聖書の言葉を読んでみたい。

「ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭16:31‬ ‭口語訳‬‬

上述のように、救いが個人個人だという前提に立ってこれを解釈するならば「主イエスを信じる」という条件を「あなた」と「あなたの家族」両方が満たすならば「救われます」と理解することが自然である。この解釈を裏付ける記述がこの言葉の後に続いている。

「それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。」
‭‭使徒行伝‬ ‭16:32-34‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.16.32-34.口語訳

冒頭の言葉を受けた看守は家族に神の言葉を伝えた。それを家族も受け入れたので家族全員が神を信じた事を喜んだ。この言葉が主イエスを信じた者の家族が自動的に救われるという意味なら神の言葉を家族に伝えるというプロセスは不要である。

だから、クリスチャンは家族の救いは自分の救いとは別という認識を持ち、家族に福音を伝えなくてはならない。1人1人が神の前に責任があり、キリストを信じない者は家族の信仰に関わらず永遠の滅びに至るのだから。

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