人が人たるに不可欠なもの。

今日は。rieruです。

人は死を恐れる。しかし、その死とはなんぞや?ということについはあまり語られる事はない。死ぬと人はどうなるのか。現実的には死んだ人はこの世からいなくなる。だが、実は物体としての体がなくなるわけではない。死体が残る。死体は埋葬され何らかの形で土に帰るわけだが、体を構成する物質は何らかの形で残っており、いずれ何かの動植物に吸収され、循環していく。少なくとも死によって何らかの物質がこの世から取り去られるわけではない。

だが、「人」としては存在しなくなる。ではなぜ人でなくなるのか。物質が一定の構成で一つに集まる状態からバラバラになるからか。しかし、バラバラになる事を人でなくなる事と定義すると埋葬される前の死体は人になってしまう。人は物質的にバラバラになる前から死を定義している。医学的には、呼吸の停止など身体の一定の機能が働かなくなる事を死と定義している。だが、それが本当に死そのものの定義なのだろうか。

死体と生きている人の決定的な違いは何か。それは「意思をもって何らかの活動ができるかどうか」だとrieruは考えている。生きている人には意思がある。何かを食べたい、誰かと話したい、感動できる体験をしたい、などの意思を持って活動する事は死体にはあり得ない。そして死体は再度意思を持つ事はできない。意思のない物体は「人」ではない。人の形をした人形は人ではない。人を構成する物質を人に似せた形に加工してもそれは人ではない。そこには意思がないからだ。死の本質とは意思がなくなる事であり、医学的な死の定義は人が再度意思を持つ可能性が0になった事を確認するための尺度に過ぎないのではないだろうか。

では人の意思とは何か。人の意思の変化に応じて脳内の物質が変動するという話は聞くが、脳内の物質変化を人の意思そのものと考えるのは無理があるのではないだろうか。物質の変化はあくまでも物質の変化であり、人が何らかの意思を持った時に結果として脳内に何らかの変化が起こると考える方が自然である。

おそらく、人の意思の本質が物質の循環でない事は多くの人が本能的に理解している。例えば「胸に手を当てる」という慣用句は物事を考える事を表現しているが、胸に何か考えることに関連する物質があるわけではない。考える時に物質が変化するのは脳である。にも関わらず胸が慣用句として使われるのは脳以外に考える事に関連するものがある事を人が本能的に察知している事を示す。

そこに、人が人たるために大事なものが存在しているとrieruは考える。そして、それが聖書の語るたましいであると信じている。

モチロンそれが聖書の語るたましいであるか否かは簡単に結論を出せる問題ではなく、それぞれが探究すべき事である。だが、人の意思というもの人が人たるために不可欠であり、それを単なる物質の循環だけで説明するのは難しいという事は多くの方に納得して頂ける筈だ。人の中には物質的なもので説明できない何かがある。それがなんであるか探究するのはクリスチャンにならなくても大事な事であるとrieruは考える。これをお読みになった方は是非その事を考えてみて欲しい。

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