義の基準と向き合う信仰生活。

今日は。rieruです。

今日は、クリスチャンに求められる義の基準とそれに向き合う信仰生活の実態について。クリスチャンに求められる義の基準は下記の聖書の言葉に端的に表現されている。

「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」
‭‭使徒行伝‬ ‭24:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.24.16.口語訳

わたしとは使徒パウロの事であり、パウロは人と神の前に良心が責められことのないように努めてきたという。基本的にこの世を生きていく上では「人の目」に正しいと認められていれば良い。人の目は不完全で他人の全てを見る事はできない。また心の中を覗く事はできないので心のうちで何を考えていようがポーカーフェイスなら問題ない。極端な他人の目に正しく見えるだけなら、自分の良心が多少痛んで生きていく事ができる。

しかし、パウロは人に対しても良心が責められる事がないように努めたと言っている。人の前であっても良心に全く咎められる事がない状態を保つ事は難しい。心のうちにある悪い考えや他人に隠れたところで悪事を行うからだ。

神の前に良心が責められないというのは更に難しい。人は見えないものがあるから対面を取り繕えば良心の痛みがあっても耐えられる。しかし、神の前には全てが明らかなので悪を行えばそれは全て神に知られている。そう考えると悪を行った時のクリスチャンの良心の痛みは非常に強いものになる。クリスチャンの良心というのはある意味非常に敏感にできている。

ある意味では、その敏感さ故にクリスチャンでない人より多くの心の痛みを覚えると言える。しかし、それは同時にキリストの十字架による罪の赦しの完全さを感じる事でもある。パウロは救われた自分に罪がある方に苦しみながら下記の言葉を残している。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭8:1-2‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.8.1-2.口語訳

救われてなお、罪の故に苦しむとしても救いは揺るがない。この事実にクリスチャンは心から感謝して惨めな自分から救われる。そこに救いの本当の価値がある。そして、クリスチャンはこの感謝の故に、自分の主であり、救い主であるキリスト喜ばれる生活をしようと決意して信仰生活を続けるのである。

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